清流と波紋

人生は、なかなかうまくはいかないものである。
言われるまでもなく、そんな事は皆さんご承知だろう。

僕は弱い人間なので、何故こんな人生になってしまったのか、その原因を外部に求めてしまう。
親のせい、環境のせい、周りの人たちのせいにしてしまう。

本当は分かっている。全ての原因は自分にあると。
怖いのだ。それを認めてしまうことが。

それを認めてしまうと、僕の中で一つ、生きるための支えになっていた綱のようなものが、プツンと切れてしまうような気がするのだ。
突っ張っていた何かがふいに取り去られてしまうような、そんな気がするのだ。

だが、僕はそれでもいいと思っている。
自分が傷つかないための、当然の防衛策だと思っている。

僕は弱い人間だ。
そうしなければ、とても僕は生きてはいけない。

落下点

怒りはときに、何かアクションを起こす為の原動力となり得ると思っている。

怒りを感じた時に、それをマイナスの力として処理するのではなく、プラスの力に変えて行動に移す、ということが大事である。

しかし、これは僕にとって、非常に難しい問題である。
壁と言ってもいい。

僕は怒りを感じた時、それを人前で露わにすることはほとんど無い。
怒りを表に出す代わりに、僕はそれを心の奥底に押し込んでしまう。
蓋をしてしまう。

そして後になって、怒りを思い出し、封じ込めていたはずの怒りが顔を出してしまう。
僕の怒りはモノに向かうことが多い。
僕の部屋には、僕の抑えきれない怒りのために、使い物にならなくなったモノたちが多くある。
壁に穴を開けたこともある。
あまり思い出したくない記憶だ。

思えば、僕は怒りだけではなく、感情をコントロールすることが非常に下手な人間である。

悲しみや、焦り、嫉妬、不安......

まるで、自分が自分でないような気がしてしまう。

僕は、僕が分からなくなる......

孤独は水底に沈殿し、静かに精神を腐蝕する

僕には、友達がいない。 

 何をもって友達と定義するのかは人それぞれだが、僕にとっての友達とは、簡潔に言えば、お互いに苦楽を共にし、腹を割って話ができる人のことを指す。

 日常会話ができる人はいるのだが、お互いに一歩距離を置いていたり、どこかよそよそしい話し方になってしまうことが多い。

 元々僕は内気な性格で、大人数の人たちとワイワイ過ごすよりも、独りでいる方が気楽さを感じる人間だった。 

 しかし、今までの人生で、一人も友達がいなかったというわけではない。 

 小学生の頃には、数は少なかったが、遊び友達と呼べる人はいた。

 しかし、僕は中学校に進学するときに、別の地に引っ越しをしてしまったため、彼らとは疎遠になってしまった。 

 中学校では、生来の内気さと、その時期特有の心の不安定さによって、友達をつくることは出来なかった。 

 それ以来、僕には友達と呼べる存在がおらず、また、そのつくり方も分からない(忘れてしまった)のである。 

 そんな日々でも、問題なく過ごせるのならば、まだ良いのだが、僕は弱い人間である。

 ふとした時、例えば、大学のクラスメイトが授業後の遊びや飲み会の予定を立てて盛り上がっている時などに、言いようのない淋しさ、孤独感を感じるのである。 孤独は辛いものである。 

自分が困っている時、悩んでいる時に誰も助けてはくれないのだ。

 友達をつくり、孤独を克服しようと、積極的に人と関わろうとしたこともある。

 しかし、僕のコミュニケーション能力の不足からか、親しい関係を築けた人はおらず、もしくは上記のような関係に留まっているのみである。 

 果たして、これから僕に真に友達と呼べる存在が できるのだろうか。

 僕は今日も、孤独に苛まれる。

黄昏は心の中に

僕は音楽を聴くのが好きだ。

音楽を聴いて、その曲が表現する架空の世界に埋没してしまえば、実際の世界に触れずに済むからである。

怒りや憎しみを表現している、頭に強い衝撃を感じるような激しい音楽も好きだし、ファンタジーの世界に迷いこんだかのように感じる、非現実的でメルヘンティックな音楽も好きだ。

退廃的な曲、猟奇的な曲、耽美的な曲、暴力的な曲が好きだ。

新世紀エヴァンゲリオンの主人公である碇シンジのセリフにはこうある。

「耳を塞げば心も塞がるんだ。イヤな世界を見なくて済むからね。」

僕は音楽が好きだ。

そして同時に、この世界は僕にとって、たまらなく「イヤ」なものなのだ。